From:用賀のドトールから
森部高史
「これをお納めください」
「なんだこれは?」
「お饅頭でございます」
(パカっと蓋を開けると、キラキラ輝く大判小判)
「越後屋、お主も悪よのう。。。」
(二人で高笑い)
今日のエントリーは、「お金に対する考え方が変わったエピソードを教えて下さい」という質問にお答えします。
お金持ちの人に対してあまり良いイメージが日本に定着しないのは、こういった民衆に愛される番組で繰り返しこういったことが伝えられているからではないかなんて思うこともあります。
皆さんも、子供の頃に言われたことありませんか?
「お金は汚いんだから、触ったら手を洗いなさい!」
確かに、どこで誰に触れたかわからないから衛生的に、という意味合いではあるのですが、子供心にもこれは「お金=汚い」という風にインプットされていきます。
汚いといわれるものに積極的に関わろうとはしないですもんね。
アメリカで8年近く生活していましたが、親が子供に
「お金は汚いのだから、手を洗ってらっしゃい!」と言っていたのを聞いたことが無いです。
「手を洗ってらっしゃい」はあります。
そもそも子供なんて、何をどこで触っているのかはわかりませんから。
でも「お金は汚いのだから」、という言葉をわざわざつけることは聞いたことがありません。
お金に関する捉え方は、育ってきた環境が大きいと一般的には言われています。
お金に困ったことのない人は、お金が困る事を知らないから困ると思っていない。
オレンジジュースの味を知らない子がオレンジジュースを求めることがないように、お金が無くて困るなんていう概念がないのです。
逆に、お金がない、というフレーズをずっと聞き続けていると「ない」にフォーカスされるようになって、失うのが怖くなる。
これも人間的本能です。何かを得るために動くよりも、既にあるものを失わないようにする。
だから本能+後天的な環境により、失うにフォーカスが強いとそれはそれは、失わないように厳重に身を固めていこうとします。
そういった意味では、僕の実家は商売をしていたので一般的な家庭よりは自由にさせてもらえる所がありました(今はもう店は閉めていますが)
しかしながら、商売は簡単ではなく大変な時期も多く見てきていますので、お金はある程度は稼げるけれど、なかなか大変というイメージを持っていたかもしれません。
仕事は額に汗水たらして働くものだ!というのは確実に刻まれていましたね。
もちろん努力することは大切なのですが、やり方は今の時代は色々あります。ただ、「やりきる」強さは家業のお陰で培われたものだと思っています。
自分自身の半生を振り返る
親の加護の元にいる時は、あまり意識していませんでしたが社会に出てからは、「お金が足りない」という感覚になることは当然ありました。
学校の側に引っ越したとき
退職してアメリカでの学費を工面するとき
アメリカでの大学院生活時
アメリカで働きながらロルフィングの勉強をするための学費
帰国してからオフィスを開くための開業費用
決して足りなくて首がまわらないということはないけれど、「もう少し余裕があったらな」と思うことはよくありました。
そんな頃に、ふと思い返したら、アメリカでお世話になったり接点があった方々に結構な数の億万長者の方々がいらしたんですね。
なかにはお金はたくさんあるけれど全然幸せそうでないひともいました。
逆にお金はあまりないけれど、とても幸せそうな人もいました。
幸せの定義というのは人それぞれではあります。お金は不必要なトラブルを避ける力になったり、誰か困っている人を助けたりできる。もちろん自分のやりたいことをある程度のところまでは連れていってくれます。
ただ、それが全てではない。
例えば、アメリカ時代NFLのあるチームでサマーキャンプのインターンをさせてもらった時、周りにいる選手達は年俸何億という額をもらっているわけです。
しかしながら、引退後かなりの確率で破産をする人がいる。
「こんなお金の使い方をしていたら、それは色々な人が寄ってきて、いいようにやられてしまうこともあるのだろうな」と思ったものでした。
お金はエネルギー、と言われることに対して感じていた違和感
ロルフィング®というボディーワークの世界に入り、様々な分野の方々と交流ていると、目に見えないいわゆる、氣やエネルギーという話をたくさん聞き、触れるようになりました。
東洋医学でいう経絡の流れ、というのもそうですね。
目に見えるものに対して、どっぷりとアプローチしてきていたけれど、なかなかそれだけでは改善しないことがあるというのは、アメリカのスポーツ現場にいてたくさん体験していました。
目に見えるものに対して、しっかりとアプローチしてきたからこそ、目に見えない何かというのは確実に存在すると実感するようになりました。
その中の一つに、「お金はエネルギーである」という言葉をよく聞くようになりました。
「流れが留まっていると水が濁るのと同じように、エネルギーも循環させなければいけないんですよ」
そんな話をよく聞くようになりましたが、どうにもピンとこなかった。というより怪しいとしか感じていませんでした。
ただ、自分がオフィスを開くようになり、現金を受け取り、仕事に活かす形になってから
「この頂いたお金をどうやって、クライアントの皆さんに還元していこうか」
そう考え始めるんですね。
勤め人の時には、その発想は全くありませんでした。
誰かにプレゼントする、ということはよくありますが、基本的には「自分のお金」というイメージが強かった。「自分をより成長させるためにはどうしたらよいだろう」という使い方です。
でも今は、自分がというよりは「どうこのお金をつかったら喜んでもらえるかな、活きていくいくかな」という意識。
そうすると、不思議と色々なことがスムーズに回り始めるし、それこそ収入としても増えてくるんですね。嘘みたいな本当の話。
ただ、そうはいっても円を縁と言い換えたり(10000円→10000縁)と言ったり、人材を人財と書いてあるのをみるのはまだまだ違和感だらけですし、自分は一生使うこともないと思います。これは単に自分の価値観の問題ですが。
生き金と死に金
よく「生き金」と「死に金」という言い方をします。「死に金」の使い方が多かったところが「生き金」の使い方にシフトしていったのかな、と。
お金のことときちんと向き合い始めると、色々なことに責任をもちはじめるようになります。
いま、僕には妻と娘がいます。いずれは社員を雇うようになったとき、自分に何かがあった時、この人たちを路頭に迷うすわけにはいかない。
そうであれば、お金のことときちんと向き合う必要がある。
自分の私腹を肥やすために、自分の元で止めるのではなく、周りをちょっと嬉しくしたり、活かしていくためのお金の使い方を意識してみる。
何もたくさんのお金を費やす必要はありません。
例えばほんの数百円のちいさな花束を大切な人に渡す、なんかでもいいのです。
相手が喜んでくれるお金の使い方。それが自分をより豊かな場所に連れていってくれるから。
今日はどんな、お金の使い方をしますか?
それではまた
森部高史