ある選手が試合の直前に重圧のあまり、何時間も繰り返し手を洗うようになった。最終的に彼が行動を止められたのはビデオに映った自分の姿を見せられたからだった。行動であればビデオで捉えられるが、内的な思い込みを何かに映し出すことはできず、だから内省ができなければ一生そのままいく。
— 為末 大 (@daijapan)
このブログでも何度か元陸上選手の為末さんのツイートを紹介していますが、今回もひとつ。
習慣の生きものとしてのぼく達
僕たちは習慣の生き物です。
自分で決定していると思っていることも、実は何度も何度も繰り返し行っているから自動化されている限られた範囲の中で選択している(ような気になっている)にすぎません。
いわゆる「癖」というものは必ずしも悪いものではなく、その人をあらわす「特徴」のようなものだと思っています。
だから「あなたにはこういう癖があるから直しましょう」
そう言われることで、ある程度の修正は効いたとしても、さほど長続きはしませんよね。
それは、単に見た感じに現れるよりもずっと深いところでその行動を選択しているから。
表面化する行動のずっと奥にあるもの
行動には必ず感情と情動が関わってきます。
前述の為末さんのツイートの中では「試合の直前に『重圧のあまり』」とあります。
「試合で良い結果を残さなければ、、、」
そのような気持ちがこの選手を支配していたのかもしれません。
はたから見ると常軌を逸した行動のように見えるかもしれませんが、本人はビデオに撮られるまで気づかなかった。
そういうことが起こりうるんですね。
これは極端な例に聞こえるかもしれませんが、多かれ少なかれ私たちは日常生活の中で似たようなことをしてきています。
それが癖、と言われるもの。
これは行動や仕草の癖、だけではなく思考の癖も含まれます。
「こうしなければいけない、、、」
「なんであいつらは、、、」
「自分はどうして、、、」
「あぁ、忙しい、忙しい、、、」
あまりにも普通に、そしていつも通りに動いている自分の中の気持ち。
そういったものが自分の行動を決めていきます。
日常選択している言葉によってもそれは型どられることを昔の人は知っていたから「言霊」という概念も生まれているのだと思います。
自分をちょっと覗いてみる
わかりやすい行動であれば、周りの人も見て認識することができるし、このツイートの例のようにビデオを撮ってもらうことで認識することができるかもしれません。
しかしこれほど顕著なものではなく、本当に日常の中で起こる些細なことの積み重ねの場合はなかなか認識することができません。
「どうしていつも自分は、、、」
「もっとこういう自分でいないと、、、」
そう思う時、本当の問題は感じている事柄のずっとずっとずーーーーーっと手前でのちょっとした思考が引き金になっていることが多々あります。
だからこそ「忙しい」とか「なんだか上手くいっていない」という時ほど、時間をつくり自分自身を振り返る内省がとても役に立つのだと思います。
自分一人でなかなか行うのが難しい、という場合は誰かの力を借りてみる。
そうするといつもの自分のパターンから抜け出すことができるので、客観的に自分を捉えることにも役立ちます。
ぼくのところに個人セッションを受けに来てくださる皆さんが、いろいろと内面の変化を感じ、それがその後の人生の変化につながっていくのは、意識的にしろ無意識的にしろ、「自分自身を振り返る」機会をたくさん感じていただけているからなのだろうな、と思います。
冒頭の、何時間も手を洗う選手のお話。
「手」は様々なものを表しますが、その中の一つには「執着」があります。
手を洗う時には、その手を開かなければいけません。
もしかしたらその選手は、心の奥底では勝利や結果というものを「手放し」全てを「水に流し」たかったのかもしれませんね。
身体、そして行動というものはとても興味深いものです。
それではまた
森部高史