僕たちはいつからか、いつの間にか
「こうしないといけない」
「こういうことが求められている」
というような空気に囲まれたり、満たされたりすることがあります。
一生懸命その期待に応えようとしていくなかで、どこか苦しい気持ちもあるのだけれど
「頑張る自分」
「期待に応える自分」
それが「自分」というアイデンティティーになっていく。
怠けているわけではないのだけれど、手が抜けない。
手を抜いているわけではないのだけれど、怠けているように思われたくない。
そうするうちに知らず知らずのうちに自分を縛ってしまう。
もちろん、そうやって頑張ってきた自分だからこそ出来たこと、成し得たこと、経験できたこともたくさんある。
それらの経験が今の自分を作ってくれたよね。
それはまぎれもない事実。
だからその過去は大切にしてほしい。
そのままの勢いで突き進める人もいます。
でもそれは稀有な存在です。
真似する必要はありません。
ちょっと苦しいな。
心が重いな。
身体が苦しいな。
それは何かが食い違っているサイン。
そんな時は自分が求めているのは「正解」なのか「答え」なのかを振り返ってみるといいかもしれません。
正解と答えの違い
同じように扱われることがあるけれど、その実情は大きく違います。
正解は他者との整合性をとるために、他者との比較の上で良しとされるもの。
答えは自分で導き出したもの。
僕はそう考えています。
正解は他の人と一致しなければ正解になりえないけれど、答えは人と違っていたって構わない。
むしろ人と違うからこその答えなのだと思います。
特に今の世の中は「正解」を出すことが求められているように感じます。
それも誰より早く。
そのなかで生まれ育っていたら、時間を積み重ねていたら「正解」を求めることが「正解」になってしまいます。
そこに「自分」がない状態です。
ここまで読んで、ドキッとした人
安心してください
どこかで疑問を持ち始めたり、気付き始めている時点で少なくとも「正解」を求めがちな自分ということに気づき始めています。
まだ気づいていない人は、そんなことを感じたり考えたりしていません。
私、いまこんなに大変なんです
「今の自分の状況は◯◯です。こんな大変なことがあります。どうしたらよいでしょう。。。?」
こんな相談を受けたことはないでしょうか。
答えに困りますよね。
それは、自分の答えは必ずしもその人にとっての「正解」ではないですし、そもそもその人の質問のなかに
「自分はどうしたい」という最も大切な「自分」がないのです。
そういった相談内容の多くは、自分が置かれている状況の説明や登場人物がたくさん出てくると思います。
その時点で、問題の根本を周りに転化しようとしている傾向があります。
「自分がどうしたいのか」
それがあれば、自ずと質問の内容も変わってきます。
より具体的になっていきます。
正解は幻想かもしれません
「子育てに正解はない」ともよく言われますよね。
つい先日も、難関高校から最難関国立大学に兄弟3人を入れて「恋愛なんて必要ない」というような類の発言をし、話題になった母親の方もいらっしゃいます。
これも「そうだよね、そこまでいけばその後の自分の道が切り開けるよね」思う方もいらっしゃるでしょうし、嫌悪感を抱く方もいるでしょう。
では偏差値至上主義から距離をおき、フリースクールであればどうでしょうか。
学業だけに関わらずどの局面にも当てはめて考えることはできると思います。
大切なのは、その当人が心から満足・納得しているかどうか、ではないでしょうか。
その「結果」としての答えはいますぐに出るものではないかもしれません。
でもそれまでの時間やふれあいの積み重ねが結果として答えになっていくのではないでしょうか。
立ち止まって考えて見ることも時には大切
いま、もしも何かで迷っていたり、悩んでいたり、身体のことでも不調やうまくいかないことがある人は一度立ち止まって考えてみてください。
自分がいま、追っかけているのは周りの誰かを満足させるための「正解」なのか、それとも自分が納得している「答え」、なのかって。
からだはこころのいれものだから
べぇ
それではまた
森部高史