今日はアメリカ生活を終えた最後の職場、University of Hawaii at Manoaのトレーニングルームを訪れました。ここでは計3年働かせてもらいました。
このことはべぇchでもいつかゆっくりお話したいことでもあるのですが、今の僕があるのは、成人してからの全てをこのUniversity of HawaiiのAthleticsに注ぎ込んでいるヘッドアスレティックトレーナー、Eric Okasakiのお陰であり、彼がいなければ今の僕はありません。
高校の頃からスポーツに関わる仕事がしたかった。でもインターネットもまだ定着していないその時代、トレーナーというものが何をするのかわからないなりに当時の主流だったマッサージや鍼灸を中心としたトレーナー活動は自分がしたいこととは違っていました。
目次
スポーツと言えばアメリカ?
スポーツと言えばアメリカじゃない?
そう言われてもどこかピンとこず、その時は当時のもう1つの夢だった教師の道を選ぶために、海外とのパイプが強い大学を選んで進学。
大学進学後、ラクロス部に入りその活動の中で当時、マーリーンズでインターンをされていた、現ドームアスリートハウスGMの友岡さんとの出逢いがあり、アスレティックトレーナーの存在を知ることに。
それから月日は経ち、大学から交換留学の機会を頂きハワイ大学へ派遣されることに。当時は言語学を中心に学びに行く予定だったにも関わらず、いざ現地に行ってみると同じ大学スポーツなのに規模が違うのを目の当たりにしてショックを通り越し、感動すら覚えました。
全米各地で仕事をしてきた現在から振り返るとハワイ大学の規模はDivision Iという一番上のレベルにいるとはいえ、小さなものではありますが、日本の大学から来た若者にとっては例えようのない衝撃でした。
そして、そこからの自分の行動が今振り返っても不思議ですが、このスポーツ環境を支える現場というものは何なのかをわからないなりに調べ始め、Athletic Trainingという科目があり、Athletic Trainng Roomという選手をサポートする施設が在ることを知ります。
ここに至るまでにも何人もの大学スタッフに話を聞きにいっていました。まだ英語もたどたどしかったのに。
初めて訪れたAthletic Training Room
そして、ついにAthletic Training Roomの扉を叩きます。
この時のことは今でも鮮明に覚えていて、当時の入り口は緑の重い大きな扉。
中にどんな人がいるかもわかりません。
カギが掛かっている。
とりあえず力の限りノックを繰り返します。
ドンドンドンッ!
ドンドンドンッ!
するとガチャっとドアがあき、Ericが顔をだし一言。
What?
今思えば、フットボールシーズンがはじまり忙しい日常のほんのささやかな、そしてとても大切な昼休みの時間でした。
そしてうるさくドアを叩いて眼の前にいる日本人。
彼にとっても理解できなかったと思います。
そしてたどたどしい英語で彼に自己紹介をし、日本から交換留学で来て1年しかいられないということ、ずっとこういうことを勉強したかったということ、そしてここで実習を積ませてほしいということをその場で伝えました。
すると彼の答えは
「Tomorrow 5am, here」
そして扉は閉められました。
「明日の朝5時にここに来い?そう言った?」
その言葉を半信半疑で持ち帰り、次の日また訪れてから僕の人の身体と人生に関わる日々がスタートします。
本来こういった実習の場は、正規のプログラムに属していなければ許してもらえるものではありません。時代が緩かったとも言えるでしょう、それでも日系人である彼の目にうつる日本人の若者にとって何ができるのか、ということで実習の場に入ることを許してくれた彼の即決断。
冷やかしならこれで来ないだろう、そう思っていたのかもしれません。
でも「朝の5時に来たらやりたいと思っていたことをみせてくれる」という単純思考で本当に行っちゃった自分。
自分を突き動かす何か
今思い返しても、当時の自分は今と違い、結果を恐れて行動をなかなか取れませんでした。しかし、そんな自分が異国で言葉も異なる中で、知り合いもいなくいきなりこういった行動を何故取れたのか、今でも理解できないし説明もできません。
でもそこには自分を突き動かす何かがありました。
そして行動を取ったことで世界が大きく変わりました。
1年の実習を経て、帰国をすることになりますが、また必ず帰ってくるように、と言われるも当時の家の事情により即座の再渡米は断念し教員として2年日本で働きます。
そして忙殺されていた頃に、「今何をしているんだ、こっちの世界には戻ってこないのか」と引き戻してくれたメール。
再渡米の時
それをきっかけに再渡米をすることになりますが、当時の資格事情の変更によりハワイ大学では国家資格であるアスレティックトレーナー(ATC)を取ることができなくなってしまったのでUniversity of Arkansasにひとまず進学することになります。
それからも、なかなか会えない割にはメールで年に数回は連絡を取り近況報告をしていました。
そして、自分も大学院を卒業し、アメリカ本土で仕事を初めている頃、ハワイ大学の求人が出ている事を知ります。
ハワイ大学の求人
普段ハワイ大学から求人はまず出ません。しかも一度出て、またすぐに求人が再度上がっていたので、Ericに何の気なしに連絡をとりました。
「珍しいじゃん、空きが続くなんてどうしたの?」
すると彼からの返信はこうでした。
「なんでお前からの履歴書が届いていないんだ。応募しろ」
色々な迷いもありましたが、周りからの後押しもありとりあえず履歴書を送ることに。
その後、1次選考の書類審査はパスしたという連絡が来て、2次選考は電話での複数人との面接
僕が交換留学中に大学院生アシスタントだった一人がフルタイムスタッフとなり、メインの面接官で、あとの数人は大学チームの異なるスポーツを担当するコーチ達でした。
その時の電話面接では、自分ならどのように状況判断をし、行動するかを的確に答えていくということが必要でしたが、ただ真面目に答えるのもなんだったので、毎回答えの最初に笑いを取るということを自分に課してみたら、これが大成功でコーチ達の笑い声が常に後ろから聞こえる電話面接1時間半でした、作戦勝ちです(ニコリ)
そして3次面接はEricとの電話面接。とはいえ、聞かれたことは「決まったら本当にくるのか」とか「いつからこれるんだ」「聞きたいことは?」とか、そんなことでした。
そして最終面接は、Athletic Departmentの長であるディレクターからの電話面接と聞いていたのですが、バケーションでいないしEricからの強い推薦もあるからということで、最終面接はまさかのなし 笑 まぁこれは最終面接というよりは最終確認の意味合いが強かったのだと思います。
総勢300名ほどの応募者の中から採用の連絡をもらったのは、ロルフィングをコロラドに学びに行った初日、まさに学び舎に入ろうとした瞬間のことであり、はじめての出逢いから10年の月日が流れていました。
ハワイ大学でスタッフとしての時間
その後、スタッフとして働く中でもたくさんの想い出があります。良いことも嫌な思いをしたことも。
でも彼はいつもそこにいてくれました。
ロルフィングの勉強も、オフシーズンには色々と調整をしてくれて、2ヶ月コロラドにいかしてくれました。しかも2回も。
(その代わり休みはもうないので残りの10ヶ月は休みなく働き続けました)
そして帰国を決めるとき
僕が帰国を決めたのは、3.11と家族の体調がきっかけでした。
シーズン最後のラスベガスでの遠征を終えて、ハワイにつくと空港に鳴り響くけたたましいサイレン。そしてパニックのニュース。
スタッフから「Takashi!すぐに日本に連絡しろ!」
まだ情報が整理されていない混乱のなか、自宅である東京は全く被害はなかったのですが、とにかく当時は僕も何がおこっているのかわからずパニックでした。電話も繋がらなかったことがなおさら。
家族の体調のこともあり、8年離れて自分の好きなことだけをしてきた親不孝も省みて、コレは良いタイミングだということで帰国をきめました。
二人きりでの話:帰国を決める
その後、Ericに「話がある」といった時点で彼は全てを察したようで「何時だったらここで俺は一人でいるから」とソフトボール場のトレーニングルームに。
邪魔がはいらず二人だけで話ができる場所をつくってくれました。
部屋に入り、彼の顔をみていたら涙がとまらず30分ただただ、泣きじゃくりました。
それでも彼は何も言わずそこにいてくれました。
そしてやっとの思いで口を開き、「日本に帰ろうと思う」と伝えると、「そうだな」と。
そして彼の思いを色々と話してくれました。
僕を採用した理由、自分がどういう功績を残してきたか、そして家族の大切さ。
また、ロルフィングを勉強させてくれたのも、大学からはグリーンカードが出せない状況だったので、いつか日本に帰っても仕事のできる選択肢をつくって上げたかったからということも教えてくれました。
僕に与えられた役割
在任中、僕の役割のひとつは、日本とハワイを繋ぐこと。
「お前のようにやりたいけどやり方がわからない、という日本人がいたらこういった場所があることをどんどん伝えていってくれ、それがうちにとっても良い宣伝になるし、お前にとっても良い繋がりができることになるから」
就任直後に与えられた名刺は、あっという間になくなり、今でもAthletics史上に残る名刺の再発注率だそうです。
本当にたくさんの日本の方々が、在任中にハワイ大学のアスレティックトレーニングルームをおとずれてくださいました。
きっかけは一本のメールからで、見学に日本から来てくれた方々もいらっしゃいます。
当時の自分のやり方が、まっとうなものだったのかわかりません。それもこれも受け入れてくれたEricの存在があってこそです。
行動をおこすこと
ただひとつ言えることは、行動を起こしたから、次に繋がり、その点が今、線になりその後の行動によって、立体になっているということ。
初めから線を描こうとするのではなく、まずは目の前の点に全てを注いで、全力で描いてみることで開けるもがあるのではないでしょうか。
でも僕たちは、全てを注ぐのではなく、最初から「こうなったらいいな」で点をかき始めてしまっているのではないか。
それだと、本当に大切なことって変わらないし動いていかない。
綺麗にまとまる必要なんてなくて、泥臭くて良いから全てをなげうってやってみる、その経験はいつでもとれるけれど、若いうちの方がとりやすいし、若いうちにその経験をしていたら、その後もいつでもチャレンジできる。
いま、じぶんはもう年を重ねてしまったしと言う方も大丈夫。今が残りの人生で一番若いときだから。
ぼくもまだまだ綺麗にまとまるつもりなんてありません。
自分を見て、憧れてくれたり、こうなりたいな、と思ってくれる人が一人でもいるのなら、ちゃんとあがいている所も一緒にみせて行きたいと思っています。
特別な場所、ハワイ
ハワイは僕にとって特別な場所。そしてハワイ大学のAthletics、そしてヘッドアスレティックトレーナーのEric Okasaki はとても大切な存在。
毎年ハワイに来る際には、彼の元を訪れます。彼と会い、話をすることは良い定点観測となります。これからもたくさんの言葉を重ねていきたいとおもうし、娘の成長も見守ってもらいたいと思っています。
そのことを皆さんに知っていただきたくての長文でした。
最後までお読みくださった皆様、ありがとうございます!
ハワイのスポーツ現場にもこんなにも日本人のことを思ってくれているヘッドアスレティックトレーナーがいるということを覚えておいて下さい。お願いします。
それではまた
森部高史